きみよりほかにはしるものなき 花かげにゆきてこひを泣きぬ

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

雪白の月
kinki兄さんの【スワンソング】を聴きながら書き始め、【雪白の月】で落ち着きました。仙台の千鶴⇌箱館の土方さんです。これで分るように、結構シリアスかもしれません。自分で書きながら、しんどかったです。
 大きい…


 それが仙台港沖に来た艦を見た千鶴の感想だった。千鶴は大坂から江戸へ敗走するまで、軍艦というものを見たことがなかった。その時乗った富士山丸にも「大筒を乗せて船が浮くのか」と驚いたものだが、いま沖にいる開陽は更に大きく感じる。あるいはそれは、度重なる敗走と心労故に、幕府軍の要となる艦を見てそう感じたのかもしれないが。
 そして理解した。彼ら幕府海軍が品川を出た時、土方達陸軍が「遅い」と怒った理由を。この艦隊が背後にいるか否かで、兵力も兵へ与える安心感も格段に違う。
 海軍に言わせれば、幕府海軍である以上慶喜に従ったまでのことなのだが、それでも陸で戦い続けていた者には安堵と共に、憤りを感じさせるには十分の存在であった。


 いま千鶴が仕えるべき土方は、そんな海軍の総司令である榎本に連れられて、仙台城へ登城している。小姓であるとはいえ、土方自身榎本のおまけとして登城できる身分である以上、千鶴は留守を守るしかない。その留守すらも、もはや新選組は信頼のおける者達しか残っていないので守るも何もない。
 現在、強いてあげるならば信用がならないのは仙台を始めとする、奥羽越列藩同盟自身。日に日に降伏へと世論が傾いているのが手に取るように感じられる。
 

 そんな中、島田ら京からの顔見知りの隊士達に連れられて、噂の軍艦を見に来た。

 「大きいですね」
 「そうですね。自分が見ても大きいと思いますから、雪村君には尚更でしょう」
 「何間…いえ、何段くらいあるんでしょうか」
 「遠目ですからなんとも言えませんが、五…いや、六から六段半といったところでしょうか」

 港から沖に停泊する軍艦を眺める。仙台も最早これまで、となれば、あの軍艦達に分乗して蝦夷へと渡ると、榎本は言い出したらしいことは千鶴たちも聞いている。榎本の乗る開陽は日本一の軍艦と名高い。彼の軍艦は、はるばるオランダから来たのだという。船に慣れない千鶴には、今いる港からあの艦の停泊する沖に出るまでの距離すらも難儀に思えた。





 しかし、千鶴は乗ることはなかった。他ならぬ土方に仙台に残るよう言われてしまったのだ。

 土方が太江丸に乗船してから出向までの二日間、どれほど荷を運ぶ船に潜り込もうと思ったことか。しかし実際には出来るはずもなく、日が暮れてから迎えに来る松本に連れられて後ろ髪を引かれながら宿へと帰った。


 「千鶴君、いよいよ明日出港だそうだ」
 「明日…」
 「土方君にも君の事は頼まれている。私と江戸へ戻らんか」
 「いいえ、私はここで待ちます」
 「あいつらは死にに行ったようなもんだ。それを待っても…」
 「松本法眼も、本当は蝦夷へ行かれるおつもりだったんですよね」
 「…そうだ。しかし土方君に止められたからな」


 千鶴君と同じだ、と慰められても胸には響かない。
 この先にあるのは戦場という地獄だということは千鶴にも分かっている。いや、これまで土方達とともに戦場をくぐり抜けた千鶴だから尚、分かると言うべきか。
 それでも千鶴には蝦夷へ追っていくという道しか考えられなかった。





 翌日、すっかり慣れた港への道を歩く。港へ着けば冷たい潮風が頬を嬲り、結った髪を乱す。まだ十月だというのに、江戸より以北の仙台はもう目前まで冬が来ている。
 彼らがこれから向かう蝦夷は、さらに北。


 もう冬は訪れているだろうか。彼の国は随分雪深い国だと聞いている。そんなところへ是から出向き、野営をしながら戦をするのか。


 いくら心配をしたとしても、今の千鶴には何もできない。手を伸ばしても届かない場所にいる。
 不思議と涙は出ない。ただ、一途に艦を見つめる。これまでもそうやって土方の背を追ってきたように。




 艦が動き出した。旗艦である開陽が指揮を取るように更に沖へと進めば、他の艦も同じように続いていく。さすがは西洋の進歩した文明が作り上げた艦達だ。憎らしいくらいに、速い。


 千鶴は髪を浚う風にも構わず去りゆく艦を見つめ続けた。その船影が見えなくなっても、彼らの往く手を見つめ続けた。





*******





艦から陸を見て、絶望を感じなかったとは言えない。戦場では感じたことのない恐怖も感じた。
 目的地である鷲ノ木に到着したのは二十日。十日に乗船してもう十日間も船の上にいる。そのうえ外は暴風雨。望遠鏡で見たその場所には、まだ十月だというのに雪が積もっている。大層、雪深い土地とは聞いていたが、あれほど積もった雪を見たのは、土方も初めての事であった。

(あの中を行軍しろってか。)

今頃、分乗している他の陸軍士官達も頭を抱えているだろう。彼らはこれから自分の命も危ないというのに、大勢の兵を抱えて雪中行軍しなくてはならない。戦をするというのに、その前に凍死、凍傷しては意味がない。なんとか案を考えねばならない。土方自身はまだいい。江戸で洋装を揃え、足元も革靴である。しかしこの旧幕府軍は、寄せ集めの軍で全員が洋装、革靴というわけではない。
 上陸予定地の鷲ノ木から箱館府までの道筋は、近道の山道か、遠回りの海沿いか。勿論、本道である山側は道が整備されている分、松前藩の兵が多く配置されているであろう。かと言って海沿いは楽かというと、兵は少ないであろうが小山が連なっており上り下りが続く。そして潮風にも当たる事になる。どちらの道になっても、兵の不満は積もるだろう。先発隊が持って行く嘆願書が、穏便に通ればそれで済むのだが、

 (それはねぇな。)

 土方の思い込みか、それとも死に場所を求めるが為の願望か。理由はどうであれ、実際に土方の読み通り、先発隊の人見勝太郎率いる三二名が七飯町の峠下で潜伏していた松前藩兵に攻撃を受けた事で戦端が開いた。この攻撃を受けて、二二日に上陸した陸軍は二手に分かれ箱館へと向かうこととなる。本道は大鳥隊、内浦湾沿岸沿いを土方隊が進むが、一部の側近を手元に残し、土方は新選組を大鳥に預けた。敵は本道の方が多いはず、となれば兵は多い方がいい。

 この進軍、土方隊は多少の小競り合いをしながらも、難なく歩を進め箱館目前、湯の川まで辿り着き宿営する。実はこの頃既に無血開城された五稜郭の箱館奉行所に大鳥隊が入っている。まだ来ぬ土方隊を、大鳥がどれほどやきもきしながら待っていたのか、想像に難くないが、土方隊はその頃湯の川の温泉で疲れを癒していた。





 旧幕府軍の快進撃は続いた。本土では新政府軍の持つ最新兵器で散々やられたと言うのに、蝦夷では自分たちの持つ武器の方が新しい、まるで立場が逆となっていた。そんな旧幕府軍の唯一の誤算は、開陽の沈没であった。


 松前城を陥落し、藩主のいる江差まで追いつめた。なんの事はない、陸軍だけで事足りるはずであった。しかし陸軍ばかり活躍し、名を馳せては海軍の立つ瀬がない。そこで総司令である榎本は海軍にも進軍させ、江差まで来てしまった。
 そこは生憎の冬の蝦夷の海。地元の人間が【たば風】と呼ぶ季節風に煽られ、開陽は座礁してしまった。
 勿論、懸命の開陽救助作戦は決行される。開陽自身大砲を撃ち、その衝撃で脱出を試みるが上手くいかず、牽引の為に来た神速までも座礁、沈没することとなった。
 総勢三千程しかいない旧幕府軍にとって、開陽はまさに一騎当千とも言える艦であった。それを成す術なく沈ませていく。幹部たちの脳裏には、もはや最悪の事態しか思い浮かばなかった。



 雪が溶ければ、敵が来る。



*******



 開陽を失っても、陸軍の功績が無くなるわけではない。そして戦場の男を慰めるものは決まっている。酒と、女だ。
 土方自身はそれらに手を出す事はなかったが、よくやってくれている部下に節制を求めるつもりはない。羽目をはずさない程度にうまくやるよう、気がつけば【守衛新選組】などと呼ばれるようになった島田達、近しい者に言い含めてある。


 この日もそうやって酒の席を設けた新選組の連中に呼ばれ、たまには付き合ってやるかと出席したのであった。
傍にはいつものように島田の巨体がある。甘党の島田も多少は酒を飲んだらしく、顔を赤らめて楽しそうにしている。

 (死地にいるってぇのに、暢気な奴らだ。)

 死地に居るのは土方も同じなのだが、他人事のように思った。そしてふと千鶴を思い出す。戦場にいるときはまだいい。目の前の敵のことを考えているだけで時間は経つ。しかしふとした瞬間に、心の隙間にするりと千鶴の影が差す。自らの意思で、仙台へ置いてきたというのに。
 たった一人の父も亡くした千鶴を、見知らぬ土地の仙台に置いてきた事は、不安がないとは言えないが、それでも松本に頼んである。あの男ならよくしてくれる筈だ。
 あのまま、自分と共に死地へ向かうよりも、本土で幸せにしてくれる男をみつけてくれと、そう願って置いてきたというのに、そのつもりもないのに千鶴の姿を探す自分がいる。

 (情けねぇこった。)

 しかしそれも春まで、と思えばこそ。春になれば新政府軍が攻めてくる。そうなれば自分もただでは済まない。千鶴の影を探す事も無くなる。その一心で、心に浮かぶ千鶴の影を打ち消す。

 そういえば、と思い出す。いま傍に居るこの男にも、京に残してきた恋女房と倅がいたはずだ、と。

 「島田」
 「はい、なんでしょうか総督」
 「おめぇ、京に女房を置いてくるとき、どんな思いだった」
 「どんな、とは」
 「せっかくの恋女房だったじゃねえか」
 「そうですね…総督が、雪村君を置いてきたのと同じ心境ですよ」

 京に居た頃と変わらない笑みを浮かべて余計な事を言う島田に、土方は鼻で笑って「そうかよ」と相槌をうった。

 そんな二人の会話を耳に入れた野村が椅子から立ち上がり、卓子に肘を置き頬杖をつく土方に向かって、酒が入った人間特有の勢いで素面では訊けない事を問いかけた。

 「副長!」
 「野村君!総督と呼べと…」
 「いや、かまわねぇよ。で、なんだ、野村」

 野村利三郎は、すっかり減ってしまった京時代からの隊士の一人で、土方も心を許している節があった。

 「副長と雪村君は、そういう関係だったんですか?」

 その問いかけに、一瞬にして千鶴を知る古株の隊士からの視線が土方に集まる。纏わりつくような視線に、土方は思わず京時代の鬼副長のように眉間に皺を寄せるが、すぐにそれを和らげニヤリと口角をあげて野村に笑いかけこう言った。

 「野村ァ。『そういう関係』ってなぁ『どういう関係』のことだ?」
 「えっ…あの…」

 千鶴が男ではなく女だと言う事は、今となっては隠しようもない暗黙の了解であったが、それをここで言うわけにもいかない。となれば『男女の仲』とは言えないが、『衆道』『念者、念弟』はもっと違う。言葉を選んで悩む野村をにやにやと笑いながら見れば、思わぬところから野村に援護が出た。
  
 「恋仲、だったのでしょうか?」

 どこか軽い野村と違い、生真面目で一本気な性格の相馬である。この二人は性格は随分と違ったが他ならぬ近藤の処刑に立ち会い、他者には分らぬ絆があり、親友であった。
 そんな相馬からの質問に、土方はふっと色気のある笑みをこぼし、一呼吸置いて口を開いた。

 「…どんな関係かって言われりゃァ、ただの『新選組副長と小姓』だよ」
 「しかし…」
 「心の内はさておき、な」

 誰の、とは言わないが。
 遮るように言って、立ち上がる。そして懐から取り出したいくらかの金子を島田に渡した。

 「俺からの小遣いだ。羽目外して明日の勤めに酒残すんじゃねぇぞ」

 言うなり、そのまま身を翻して立ち去る。それを見て、すっかり土方の色気に充てられた隊士達が慌てて立ち上がり、背を見送った。どうにも今日は、酒のほかに女も買わなくてはならなくなりそうだ。


 そんな新選組を見つめる男達がある。

 「随分デリケートな問題みてぇじゃねぇか」
 「そうなんですよね。僕がなんとかしてあげようかと」

 じゃないと土方君、明日にも敵弾の前に出て行きそうだし、と笑う大鳥に、違いねェと答える榎本。

 「で、どうするんだ」
 「箱館も手に入れた事ですし、そろそろ雪村君を呼んであげようかな、と」
 「そりゃおもしれぇ。俺にも一枚かませてくれ」

 生憎なことに【デリケート】なる異国の単語を理解する者は、発した当の本人榎本と、相手をする大鳥しかこの場に居なかった。

 酒の入った人間の性質の悪さを、土方は思い知ることとなる。


*******



酒場から一歩外に出れば、冷たい風が肌を刺す。空を見上げれば今にも雪を降らせそうな雲が僅かばかりの隙間を見せ、そこから冴え冴えとした月が顔を覗かせていた。

 「悪かねぇが、俺ァやっぱり…」
 「春の月、かい?」
 「八郎さん」
 「相変わらず春の月が好きだねぇ」
 「そうだな」

今見える月が、春の姿を見せる頃、土方や傍へ来た昔馴染みの伊庭がどうしているかなど考えるまでもない。月を見上げる暇もなく戦に明け暮れて、屍を月影に晒すことになるのだろう。
互いにそれを分かっているのだろう。二人は言葉も交わさず、ただ月を見上げる。


厚い雲が月を覆った時、二人は歩み始めた。

 「なにかいい句は思いついたかい?」
 「何にも考えてねぇよ」
 「つまんねぇなぁ」

こんな気安い口をきくのも久しぶりだった。

 「おいらァ、てっきり噂のトシさんのお小姓に会えるのかと思ってたのによ」
 「残念だったな。あいつは本土に置いてきた」
 「何年も傍に置いてすぐそこまで連れてきといて、なんだって船で数日のとこに残してくるかねぇ」
 「うるせぇな」
 「考えてもみなよ。トシさんの我儘きけるなんて、田舎の姉さんとそのお小姓くらいなもんさ」
 「あいつに我儘なんか言ってねぇよ」
 「見知らぬ土地に人ひとり置いてきて、我儘じゃねぇはないんじゃないかえ」
 「我儘じゃねぇよ」

意地を通しただけだ、と心の中で続けながら、足を雪にとられないよう注意して歩む。同じように足元を気にする隣の男には左腕がない。この数々の戦の中で斬られたらしいが、それでも命長らえ蝦夷まで来るのだから大したものだ。そんな男が転ぶようなヘマはしないと思うが一応、と土方は様子を伺いながら歩を進める。

 「まぁ冗談抜きでさ、田舎の姉さんとそのお小姓にほとがらでも撮って送ってやんなよ」
 「あいつに送ってどうするんだ」
 「そうすりゃあ、トシさんの菩提弔うくらいはしてくれるんじゃないかえ?」
 「まだ死んでねぇよ」
 「時間の問題さ、おいらもトシさんも」

 物騒な事を言いつつにこりと笑う伊庭に、土方は「こういう男だった」と再確認した。  

「八郎さんは、江戸でも蝦夷でもかわらねぇな」
 「おいらはおいらだからね」
 「だが、ほとがらはおくらねぇよ」
 「頑固だねぇ」  

土方としては、千鶴には新選組を、自分を忘れて真っ当な男と所帯を持って幸せに暮らして欲しいと願っている。だからこそ仙台に一人置いて来たのだ。今さらどの面さげて、「君な忘れそ」と写真を送りつけられるのか、というのが本音だ。
 たとえ頑固と言われようと、この意志を曲げるわけにはいかなかった。それに何より…

 「あいつが今どこにいるのか分かんねぇしな」
 「ははっ。そりゃあ無理だ」  

まだ仙台にいるのか、それとも松本に連れられて江戸に戻ったのか。それすら今の土方には知る手立てもない。仮に江戸に帰っていたとしても、雪村家の在所も知らない。
 仙台の別れで、千鶴との道は別たれた、そう土方は思っていた。  

 ―もう、会うこともない。

 そう理解しているのに、慣れというものは恐ろしいもので、土方はいつもどこか千鶴を探していた。
 例えば今のように外から宿へ戻れば、足湯と手ぬぐいを用意した千鶴が出てくるのではないか、と。しかし実際には出てくるのは色目を使ってくる女中であった。

「今のお女中、トシさんに惚れてるね」
「いつものことだろ」
「昔のトシさんなら相手してやっただろう?」

(そうかもしれない。)

 こんな辺境の田舎の女にしては悪くない器量だし、つまみ食いくらいならかつての土方はしたかもしれない。しかし今はそんな気も起きず、宿に戻ってするのは仕事か、睡眠をとるかが常となっている。不思議と、そういう気にはならなかった。京に居た頃など刀を振るった後には、気が昂って酒やら女やらの力を借りたものだが、もうずっとそういう行為から遠ざかっている。

 「気になるなら、八郎さんが相手してやりゃいいじゃねぇか」
 「トシさんに惚れてるおなごといい仲になってもねぇ……それに、義理立てしてやりてぇ女もいるし」
 「八郎さんにねぇ」
 「随分無理を言って、金子を工面してもらったんだ。それを置いて他の女は買えねぇやな」
 「そうか…」

 誰もが本土に誰かを残してきている。不器用な男共の集まりだと可笑しくなった。上手く世の中を渡っていければ、今頃女房や恋仲の女と温かい褥を共にできただろうに、蝦夷まで来た男達はそれをせず明日をも知れぬ身となっている。土方はその中でも最たる部類に入るのだが。
 防寒の為に閉めていた雨戸を少し開ける。帰路と同じく、月は雲に覆われてしまって、幽かな光がいま月が居る場所だけを教えてくれていた。
  
 「明日も雪だな」
 「いいよ、いいよ。降らない日だけ教えてくんな」

 言われてみれば確かに。冬の蝦夷で雪が降らない日などあるのかと、誰かに問い詰めたくなるような毎日だった。土方などは春の戦で死ぬつもりだが、榎本達はこの蝦夷を旧幕府軍で開拓しようとしている。こんな気候の土地でどうやって農作業をして生活していこうと言うのか、土方には見当もつかなかった。

「明日にはおいらもあちらに戻らなきゃなんねぇんだ」

 伊庭が所属する遊撃隊は松前の守備にあたっている。何か用があって箱館へ来たついでに、旧知の土方の元へ来てくれたらしい。そんな旧友の為に土方は、宿の者へ酒を持って来てくれるように頼んだ。

 「こう寒いと酒がないと辛いねぇ」
 「温める程度ならいいけどな。そのうちどっかで馬鹿が酒に酔ってその辺で寝て凍え死にするんじゃねぇか」
 「蝦夷に慣れてない連中ばかりだから、あるかもしれないねぇ」
 
 箱館奉行所など、箱館府の人間がごっそり荷を置いていったため、暖をとる為の薪なども蓄えはあるが、それも無尽蔵というわけではない。本部が五稜郭というだけで、隊ごとにそれぞれ拠点を置いて、宿に住ませているが。この寒さを思えば春が待ち遠しいが、春が来れば即ち土方達には死の訪れも意味する。死ぬつもりではいるが、死にたいわけではないのでなんとも複雑だった。

 「それでトシさん。そのお小姓とはどうだったんだい?」
 「どう、とは?」
 「野暮なことお聞きじゃないよ」
 「野暮も何も、あいつとは何もねぇよ」
 「まさかそんな、ひってん敦盛ともあろうトシさんが…」
 「昔の話だ」
 「いやだって、口の一つや二つ、吸ってやったりは」
 「してねぇな。そもそも知り合った頃のあいつは、十五やそこらのガキだぞ」
 「ガキったって、それからもう何年も経ってんだろう?舞妓や衿がえしたばかりの芸妓や遊女だって、それくらいの歳だろう。トシさんだって、そういう女と浮き名流してたじゃねぇか」
 「色街の女と、堅気の女は違うだろ」
 「それは…そう、か」

 ましてや千鶴は、町医者とは言えきちんと学を修めた蘭法医の娘で、その養父がまた幕府から密命を拝命するような男だった。所作一つとっても、きちんと躾けられている事が分る。そんな娘に好かれているのをいいことに、簡単に手をつけるわけにはいかなかった。いやしかし、もしあのまま新選組が京にいればあるいは……



 考えても仕方ない事であるが、ありもしない事を空想するのは人としてのあるべき姿か。その後、伊庭と昔語りをしながら酒を飲むうちに、眠気に抗えず二人して布団にもぐりこんだ。

 そして土方は夢を見た。


 そこはまだ京で、己はまだ着物を着、髪も長い。懐かしい屯所の中を―これは最後の不動堂村の屯所だ―歩き、懐かしい顔ぶれに声をかけながら外に出る。そして少し歩いたところへ向かう。この道筋にも覚えがあった。

 (こりゃぁ、近藤さんの妾宅への道か。)

 そう思ったのに、実際にはその手前で立ち止まり、町屋へ入る。

 『お戻りなさりませ』

 武家の既婚者の証である丸髷を結った女に出迎えられる。

 ―そうか、幕臣になって所帯を持ったのか……いや、待て。誰とだ。

 こんなことは夢だと分っている。分っていても確認せずにはいられない。否、確認するまでもない。
 先程聞いた声も、いま土方の足元に跪き、その足をそっと拭ってくれる姿も、女らしい柔らかな手も、土方は間違えるような真似はしない。

 『今日も仕事はお忙しかったんですか?』

 気遣う様に話しながら、女がすっと顔をあげる。その顔は…

 『すぐに夕餉の用意を致しますね、歳三さま』



 「千鶴…」

 女の顔を認識するや、自分の掠れた声で目を覚ます。火鉢の火は落ち、荒く口から吐き出される息は白い。隣の布団を見れば、もう伊庭はいなかった。もう宿を出たんだろうか、そう思うと同時に、自分の女々しい声を聴かれなくてよかったと安堵した。

 (なんて悪夢だ。いや、これこそが俺の願望か。)

 大名屋敷と見間違うばかりの屯所に、健在の友。そして、勤めを終えて帰る家に、迎えてくれる恋しい女。

 (俺ァ、てめぇで思ってる以上に、千鶴に惚れていたらしい。)

 自覚してしまえば、こみ上げてくる笑い。しかし今さらあの頃へ戻る事はできないのは百も承知。それどころか、仮に戻れても自分が千鶴を女房にするとは、土方自身思えなかった。

 (俺ァ馬鹿な男だからよ。きっとあの頃に戻れても…)

 かえって千鶴を遠ざけたかもしれない。ましてや現状を知っていれば尚更、早くに手放したかもしれない。そう思いながらもそれに対して疑問を抱く。

 (本当に手放せるのかよ。今だって会いたくて仕方ねぇってぇのによ。)

 恋しいとはこういうことかと、三十半ばになって二十歳やそこらの女に教えられるとは。


 ついに夢にまで忍び込んできた千鶴を追い出すには仕事しかない。諦めにも似た心持で布団から出て、火鉢に火を起こす。そして部屋が温まったところで、すっかり着慣れた洋装へと手を伸ばした。

 (春までだ)

 そう言い聞かせながら。



スポンサーサイト

コメントの投稿

 管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバック URL

Copyright © 月の江. all rights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。